共鳴と切望

言葉の枯渇か、昇華の方向性の変化か、どうとも取れるだろうけれど、噴水のように言葉が湧き上がるような日々はもう送っていない。伝えたい言葉を暗号に変換して綴ってきたこのブログも、更新が滞っているのは、伝えたい言葉とやらはもう伝えたい相手にまっすぐと伝えられている日々だからかもしれない。

言葉が湧き上がって仕方なかったころのわたし、あなたがいまのわたしの様子を知ったら笑うでしょう。わたし、あなたが切望しているものを今この掌に受けているんだよ。ありえないと嘲る?羨ましいと嫉む?幻想だと一蹴する?そのどんなひねくれた眼差しが向けられようとも、あなたは未来で切望をきちんと受け取れるんだよ。それを享受する器として、生きられている。ほんとうのことだ。

自分の生き様を肯定できる自分がいなくとも、受容して抱きとめてくれるだれかがそばにいてくれる、そんな未来があなたには待っている。それが刹那に終わるとしても、わたしの人生のたしかなともしびとなる。かすかであれど灯りつづける、おおきなおおきな幸福、待ち焦がれた切望の獲得の訪れ、それは紛れもない共鳴のことだ。

書きなぐり壁に貼った「共鳴と切望」の文字。わかっていたんだ、何を望むかを。わかっていた、なにが自分にとって幸福かを。