おまえは勝てない

「趣味でやってます」とか言う奴やその言葉そのものにひどく抵抗を覚える、少なくとも私には容易く公言できない言葉だ。趣味でやっているからこそ浅薄になる思慮があるだろう。矜持のない奴からも似たように価値を感じない。矜持の有無は日頃の振る舞いに直結する。おまえは勝てない。勝てるはずがない。わたしはいまのわたしのありさまがどうであろうと矜持を持って人生をやっている。それに関しては確信がある。だからこそ他者のヌルさに苛立ちを覚える。どっかの誰かが作ったキャラクターの決め台詞の「ボーッと生きてんじゃねーよ!」、文脈を無視するならば同意しかない。ヌルく生きてヌルく死んでいく、そんな人生をわたしが送れなかったことは結果論でしかないが、だとしてもそれでよかったんだ、と、いまこの瞬間に思っている。思わされている。わたしにとって価値がないわたしになりたくない。無価値なわたしは世界で一番不要な産業廃棄物だ。そしておまえはたったいま、世界で二番目に不要な産業廃棄物だ。おまえは勝てない。勝てるはずがない。

大丈夫

「リスク?何事にもあるよ。最悪死ねばいい、怖くはない。何もできず生きるほうが怖い。私は自己肯定感が低い。でも自信はある。皆が自分にとって失礼のない生き方が出来ているのなら、私は何も変えようとはしない。」

 

 

追憶をする。私は彼にとって「選択を経てきた人」に見えるらしい。「選択」を経なければ、あなたのようにはなれないよ、と言われた。

そして、だから、「大丈夫」、なのだと。

 

様々な凡論または普遍論に則るとすれば、私たちは「黒い」。そして「悪い」。実際にインモラルなことや法律に触れることだってした。個々にも、共にも。

しかし我々はそのような生き方しかできないと互いに自覚している。

それでも彼は「大丈夫だよ」と言う。口癖のように言う。私はその言葉の対象は「人生」であると解釈している。

 

 

「今後もお互いに、自分を大切に生きていこう。それが自分を傷つけることであっても、大丈夫」

 

 

自分を傷つけることと自分を大切にすることは両立する。私はそれを、彼に言われずとも知っている。しかし彼も、私が事前にそう主張するまでもなく、同じことを知っていて、言った。

つまるところ私は彼に共鳴をしているのだ。且つ、きっと彼は本当に、自己をも、私をも、殺せる人なのだ。

 

彼との最初の会合では、私は彼に強く絞首をされた。それはもう、一瞬失神するほどに。それが性的嗜好による行動か、他の動機を孕むなんなのか、なんてどうでも良かった。

とにかく私はその時、鏡を見た。私を映す、鏡を。

私は私のことが知りたいのだ。それを彼は叶えてくれた。絞首の渦中に、彼はニコニコと笑っていた。私はその笑顔に、奇を衒う意図があったと、なんとなく冷静に見抜いていた。のちに、私は彼のおでこにある傷跡に触れた。その時、彼からの絞首は止んだ。「僕の人間らしい部分に気づいたね」と言って。

 

私は泣いた。ここから抜け出して大切な人に会いたいと思う気持ちや、肉体的な極限状態などが十把一絡げになり、泣いた。

でも私は鏡を見た。それが何よりも、彼への慕情に繋がった。

「ありがとう」と私は言った。「みんなにありがとうと思ってるけど、あなたにも思った」と伝えた。

彼は寝室で寝転んで、「意外な展開になっちゃったな、」と言い残した。

 

 

「あなたの大切は何だ」

『今、この瞬間』

「あなたにとって私は何だ」

『どんな人か、鏡だよ、あなたは』

 

 

同じだよ。

何で同じなんだよ。

笑えるよ。

 

 

「それでも美しくあり続けようとすることは、正しいよ きっと。」

「自分であり続けよう。」

 

 

大丈夫、だ。私も彼も、死んでも生きても、大丈夫なんだ。

 

 

「うん」と、私は言った。そこでその日の会話は終わった。

わたしの現在はあなたの過去

よく、「あなたを見ていると昔の自分を思い出す」と言われる。

 

わたしは齢26にして未だ、やたらめったら向上心があり、自分の姿にばかり興味があり、生活がままならない割に大仰な理想を持ち、たぶん生意気だ。

そして、昔の自分を思い出す、と彼らがわたしに言う時、それは、私は今は違う、ということを意味する。

今は違う。ならばその彼らの昔とは何だったのであろうと思いを馳せる。停滞を前提とした初期衝動であったのか、歳をとって丸くなるという普遍論のアレに沿った生をしたのか。個々で前提が違うのだから同じ鋳型に嵌めて語ることなど当然できはしない。

 

しかし、鑑みるに、結局彼らは「初期衝動」をわたしから感じているのだろうと推測する。

 

初期衝動とはいずれしんと冷めていくものであろう。だが、自己認識はそうとは限らない。限らないどころか、このありさまが「わたしが成し得たわたし」である、ように感じるのだ。

もちろん罹患中の精神疾患の影響も大いにあるが、これは初期衝動という言葉で片付けるには、あまりにもわたしにとって、業だ。

壁に開けた穴、クローゼットの壁面に書き殴った詩、蹴り割ったガラス窓、投げ壊した灰皿、全て激情の露呈であり、全て病質の証であり、全て、全て、ずっと、ずっとずっと、ずっと逃れられやしない、業の表象なのだ。

 

あなたがたが懐かしむわたしのふるまいやありさま、それらは、わたしが業に侵された姿なのだ。

人生≠生活

人生と生活をイコールで結ぶことができない。

旦那が家事なんかやっている時には、(そんなことより魂燃やせよ)と思うし、なんなら「今やんないでいいよ」と発語するときさえある。人生とは魂の奔流に乗ることであり、生活は魂を枯らすものであるという認識をしていることが否めない。

わたしにだって生活を愛せた時期が少しはあった。20代前半、フリーターをしながら、都内家賃29000円のボロアパートの家賃や光熱費を払い、隣人どころか隣隣人がフローリングに直でコロコロをかける音を室内BGMとしつつ、屋根裏を駆けるドブネズミ、やたら手足の長い蜘蛛、夏場にひっくり返っては暴発の様子を見せるアブラゼミ等と共生し、絵はあまり描かず、自炊やスキンケアに些細な喜びを見出し、バイト先の人々との交流を楽しんでいた。順当に、生活、をしていた。

いっぽう今のわたしは、ひどい時にはバイトの前日の深夜に灰皿を投げ割って「死にたい」「殺してくれ」と絶叫するほど、生活を担わされる行為に多大なる拒否反応が出る。バイトを転々としすぎていて、居住地域の求人にはほとんど「応募済」の表示がされるほどだ(実際にそこで働いたかは別として)。

保育園児が親と離れ保育園に預けられることを泣き喚いて拒むようだ。やがて彼らは慣習により自立心を育むが、わたしも、その保育園児に喩えたプロセスを再度踏んでいかなければならないのだろうか、と考えると、気が遠くなる。

これは何ゆえの問題なのだろうか。自己を受容できていないのか、生活を受容できていないのか、あるいは両方か。

 

生活が苦手で、人生が得意です。とか言ってみても、わたしはやっぱりここではないどこかへ行きたい。

からっぽ

テーブルの上に飾っていたカーネーションが枯れるでもなく不思議と自ずから首を折った。貰ったり買ったりした花々の末路が地域のゴミ袋の中でしかないことにぼんやりと不条理を感じる。

わたしはなにが欲しいんだろう。名も知らん近隣の人とチャットできるアプリをインストールして、ひととおり暇を潰し、人生において有限である時間というものをこんなしょうもない暇潰しに明け渡している自分の気高くなさに嫌気がさす。これがわたしの本業なんだと矜持を持ってなにかを作れば作ったで、それらはクローゼットの段ボールの中や自室の隅に積まれていくばかりで虚しさの募りが否めない。

得られなかったもの、貰えなかったもの、受け継げなかったもの、そんなものたちを数えようとすればキリがない。わたしは恵まれた、とは言えても、わたしは幸せだ、と胸を張って断言できる自分がいないこともまた虚しい。住める部屋も飼っている動物も素敵な友人もかわいい服も集めに集めたアクセサリーも魂を込めたはずの自分の作品さえも、なんとなく曖昧に脳を通り過ぎて、安全基地として留まってはくれない感覚がある。

 

絵を描いている。画塾の講師の言うことを真剣に受け止めて、理解しえなかった部分も解消を試みて、ちょっとずつ支持体研究もして、画材への理解も深めつつ、絵を描いている。どうしてだろう、どうしてなんだろう、どうしてもどうやっても、わたしの絵は、わたし自身は、そんなにからっぽなんだろうか、と苛まれてしかたない。あの子が権威ある賞を獲った年齢をわたしは超してしまった。レッドカーペットを歩くあの子はわたしより8歳も年下だ。あの人のように美大に行けなかった。あなたのようには生きられなかった。

捻くれて拗らせて身を窶して、果てに置き去りにされた残滓みたいだ、わたしの作品は。誰に認められたって脳内物質の生成は一瞬で止まる。高く跳ねるには低く飛び込む必要があるったって、わたしはきっときちんと垂直に飛べるような正常な翼などどうせ持ち合わせていないのだろう。捥がれた翼の完全な蘇生など叶うものだとは今はどうしても思えない。

放置され壁と同化した100号のキャンバスが視界に入るたびに居心地の悪さを感じる。

誰も見ない花火を打ち上げる

筆洗には穂先を突っ込まれた絵筆、Amazon最安値をポチったであろうキャンバスとイーゼル。ハッシュタグアーティストが使い古されて、そこはもうリバイバルの荒野。観葉植物は埃を被るだけの存在だから嫌い。ちいさな盆栽が朽ちるのをお前は見ているだけだった、どんな花ならドライフラワーにできるのかすら知らないお前。黒い服は着たくない、虚栄心に手脚が生えたようで滑稽だから。百日紅が咲き出す季節になった。

 

ああ、私って天才だよね。

今この歳になって、わたしが高校生時代に描いた絵の類似作品を探しても、発見できるそれの作者はちっとも高校生じゃない。あの歳であんなにも輝度が高く、矜持が強く、欲しがられど靡きはしなかった。

 

ああ、私って天才なだけだね。

実家の押し入れに埋もれている表彰状はなんの努力もしないでいても手に入れられた代物。100メートル走でわたしに勝てたことがないあの子はわたしが不登校になった中学校のテニス部で選抜メンバーに選ばれていた。

 

ああ、天才ってごまんといるんだね。

こんな文字列を並べたって回顧に耽溺する未来の種を蒔いているに過ぎない。濡れた導火線にマッチの火を押し付けて終わる人生ならば、天才であることの愉悦を甘受などできやしない。

 

生活ができる人は生活ができる程度の人なのよ。堕ちた人も昇った人も輝いた人も染まった人も、みんなみーんなその程度の人。

わたしは学校に毎日行けない。フルタイムで出勤ができない。夜寝て朝起きることができない。けれど誰にも教わったことがないものを掘り当てる力に異様に恵まれた。

キャンバスを世界堂で買うこと、アクリルガッシュで美しいグラデーションを作ること、グレイスカルピーを造形すること、そもそもそれらを「知る」こと、全部全部全部、誰も教えてくれなかった。わたしが、わたしだけで、わ、た、し、だ、け、で、

辿り着いた。

 

他人なんてなんも教えちゃくれない。わたしだけが何にも似つかない大輪の花火を打ち上げる。

誰もそれを見ないとしても、わたしは絶対にそれをする。

つまらない人生

ロジカルで乱れのない文章はそれに付随した詩的さや美しさがない文章に劣ると現代文読解の問題集で見た。わたしは整ってただただ刃物のような文章しかこの頃は綴っていない

人の影響下で生きることは前提だとしても人の意向に沿うように生きることは非常なる間違いだと何度も学習したはずだ なのに誰かの庇護下で生きることしかほとんど知らない 庇護下で生きているからその庇護者の意向に沿わなければならないという責任が生まれる そんな主たる操縦桿を他者に委ねる生き方、間違いに決まっている 誰が何と私に言おうとそれは私の中で覆せない絶対的な間違いなのだ 間違い以外の何でもないのだ

そしてわたしはわたしが生まれたこと、生き続けたこと、その上で起こした全てのアクションが間違いだと感じる それだってわたしの中では決して覆せない間違い且つ恥辱且つ愚かしいという認識なのだ