くだらないつまらない

だれかの玄人風の作品がただのガチ玄人の模倣だったときの落胆、社会情勢の安定という基盤の上に成り立つ創作なのだと言われても完璧にピンとはこない厭世観、前提としてわたしを象った鋳型が歪だったから、社会の歪さがわたしにむしろ適合する。それって選民意識なんすよね〜ってなんすか?選民になれなかった者は指をしゃぶり続けてアウトサイダーの荊に縛られ続けなきゃならない理由を説明できない癖にマンスプして気持ち良くなってんじゃねえよ。

誰も彼もくだらない。

つまらない人生

ロジカルで乱れのない文章はそれに付随した詩的さや美しさがない文章に劣ると現代文読解の問題集で見た。わたしは整ってただただ刃物のような文章しかこの頃は綴っていない

人の影響下で生きることは前提だとしても人の意向に沿うように生きることは非常なる間違いだと何度も学習したはずだ なのに誰かの庇護下で生きることしかほとんど知らない 庇護下で生きているからその庇護者の意向に沿わなければならないという責任が生まれる そんな主たる操縦桿を他者に委ねる生き方、間違いに決まっている 誰が何と私に言おうとそれは私の中で覆せない絶対的な間違いなのだ 間違い以外の何でもないのだ

そしてわたしはわたしが生まれたこと、生き続けたこと、その上で起こした全てのアクションが間違いだと感じる それだってわたしの中では決して覆せない間違い且つ恥辱且つ愚かしいという認識なのだ

普通に異常

異常であることが普通になってから久しい。死にたいが形象化することは日に日に容易くなり、どのような賞賛を受けても心の底から浮き足立つことはなく、誰に対してもわたしは(もちろんわたし自身へも)幸せを願っていやしないのだろう、という諦観がある。

展示会を催し、在廊の最中、ぼんやりと「死にてー」という記号がシグナルのようにあらわれる。べつにその展示会で死にたくなるような出来事があったわけでもない。ルーツの部分がもう希死念慮に蝕まれて治りゃしないのだろう。わたしの死にたさはわたしの普通だ。

何もわからない。複数の他人の庇護を受けつつ担保されつつわたしは今を生きているというのに、損得勘定に基づいた打算的な感謝の仕方しかわからない。それが感謝と呼ぶに値するものなのかもわからない。わたしはわたしの価値がわからないからこそ、わたしという個体を庇護し担保先になろうとする心情が理解できず、故に純粋な感謝ができないということなのだろうか(純粋な感謝って何?)。

そんなことをこうして綴っているわたしは今ココアビスケットを貪りながらレモンティーまで嗜んでいる。自分の価値がわからないなどとほざく割にしっかりと嗜好品を己に与えていて、矛盾を感じざるを得ないかもしれない。そういえばわたしの恋人は「自分に褒美を与えることが不得意」だとよく言っている。だからわたしのように間食もしない、買い物もしない。けれどわたしは褒美感覚で今こうして嗜好品を食らっているわけではない。欲望を褒美であると認識の変換をする間もなくわたしは今ココアビスケットに手を伸ばしているのだ。

けれど欲望を叶えるにはもちろん対価が必要で、その対価の生産を自分一人のみで背負えていやしない状態で欲望の権化になっていることがわたしの多大なる問題だ。わたしのクレジットカードは分割払いの手数料にまみれているし、住んでいる家だって家賃諸々は同棲中の恋人が支払ってくれている。すべて同意の上だとて、情けないものである。

普通に異常なわたしの人生を一番望んでいないのはきっとわたし自身なのであろう。

地元が嫌い。

わたしはわたしのルーツの殆どを毛嫌いしている。

肉親が嫌い、本名が嫌い、地元が嫌い。肉親はわたしを散々な目に遭わせた当本人だし、本名はその肉親がわたしに授けた私に決定権がないものだし、地元はそんな肉親やわたしの本名を知る者どもがわらわらと蔓延っている場所だ。つまるところいい思い出がない場所やモノが好きじゃないという至極当然のことが脳に刷り込まれているだけだ。

どうしても、どうしても、わたしの失った人生を他人に見てしまう。わたしがわたしのルーツを愛せていたら、愛せるような育ちをして愛せるような扱いを受けていたら、わたしは今頃おまえみたいに生きられてただろうか、などと。

失った人生なんてものはなく、今のこのわたしの人生こそがわたしの本来であり順当な人生だとわかっている。頭ではわかっている、いいや頭でしかわかっていない。こころはどんな理論にも追いつかず、これではダメだ、こんなのはイヤだ、といつだって癇癪を起こしている。

わたしはわたしを受け入れられない。けれど受け入れる努力も努力のための努力もなんにもしていない。努力できることさえ才能だとどっかの海外大学が研究論文発表済みらしいが、そんなことはどうだっていい、その才能がわたしはほしい、ほしい、また癇癪だ。

呼ばれない地元の同窓会(ていうか呼ばれないどころか存在したかすら知る術はない)を憎むことすらない、生理的なまでの嫌悪感を地元に捧げるように、わたしは偽名で活動をし続ける。

おくすり手帳

文字だらけの中途半端におおきな四角いシールが1枚貼られただけの1ページは、なんだかもったいないページの使い方をされているなあといつも思う。そういえば昔、集めたシールをさんざん貼っていたシール帳の出来に対して、当時のわたしは満足していなかった。欲しいシールはもっとほかにあるのに、安く手に入った地味なペラペラの紙シールばかりを己を窘めるようにシール帳に貼りつけていた。

幼少期を思い返すとちょっとした抑圧の経験がやたらと多い。華やかな手作りお弁当を食べたことがないこと、みんなが使っているようなかわいい文房具を自分だけ持っていないこと、シール帳に貼られているのは地味なシールばかりなこと。ありつけなかった些細な満足がたくさんあった。それらの些細さのわりに、わたしの人格はおおきく捻くれた。

おくすり手帳に貼られている四角くておおきなシールだって、なんにもかわいくない、わたしの中で価値を持たないシール。

みんなが持っていたキラキラでぷっくりしたかわいいシールとは掠りもしないシール。

こわれていてもかまいません

神聖な合唱曲を模倣するようにそのうたは愛を歌う。剥がすときの痛みなどかまわずに傷口に絆創膏のビニール部分をかぶせる。わたしはわたしをじゅうぶん大事にしているし、むしろ大事にしているからこそ自傷行為をおこなっているにすぎない。目に見える血を流せばそれがすなわち傷でしかないなんて、短絡的すぎやしませんか。わたしのこと抱きしめてもくれなかったくせに!

涙が出ないのは涙が出ない程度の苦しみしか味わっていないからと分かりきっている。痛みを感じないのは痛みを感じない程度の深さの傷でしかないからだとも。アルコール液が傷口にしみてそっちのほうがはるかに痛くってわらっちゃった。そんでわらえているからわらえてる程度ならだいじょうぶだなーとおもった。

こわれていてもかまわない、なんて、それがうそじゃないとわかっていても、こわれているからこそえらばれるなんてことが導く未来のグロさ、わかってから言ってよね。

おわりあるものもこわれているものもわたしはちゃんと大嫌い。

宣誓

あなたを光のほうへ導くと、わたしが導くと、わたしは言葉にした。それは幸せを願うどころか幸せにするんだと言うことと同義で、とても傲慢なことだ。

武道を習っていたころ、その大会で選手宣誓を指名されて、何百人の選手の前で右手を掲げて宣誓をしたことがある。光のほうへ導く、などと言ったことは、その宣誓に感覚が似ていた。そのときはガキだったしただ指名されたから自発的な意思も真剣さもなくただやった側面もある。けれど、ようは、覚悟の表明なのだ。生半可な気持ちであなたを想っているのではないという表明をしたかった。自分に言い聞かせるためでもあった。おのれの退路を断つための。

光のほうへ導く、それが叶わないことに身を窶す結果になる可能性のことも十分に分かっている。けれど、他者と関係することにおいて、自分の傷つきを回避することに躍起になることに価値を感じられる形成などわたしは成していない。他人を想うことは傷ついても苦しんでも死にそうになってもそうなるだけの価値があることだと愚かなほどに信じている。その苦痛たちはむしろ切望の証左だと感じるほどに。

愛の証を残したいというわたしの欲求は悪癖の域で、ここまでの執着を覚えないことが健全であることはわかっている。証左を残せなければ気概がないといいたいわけでもない。相手を害してまで証を残すことを優先するつもりもない。傷つくことに躊躇がないなんてことを繰り返しているうちにほんとうに死んでしまったひとを知ってもいるから。

スタンプラリーのような恋愛をしたいわけじゃない。結果的にそうなるとしても、己のステップアップのための踏み台にするために他者と関係をしているつもりもない。

かけがえのないあなたがわたしのなかにいる。そのたったひとりのあなたと光のほうを目指したいと思っている。真剣に愛してる。