お前はヒステリーを起こすと必ず口癖のように「私"だって"辛いんだよ」と昔言った、けれどわたしは、わたしたちは、"だって"という言葉を使われるほどお前に対して私たち自身のつらさを表明できていた事実なんてなかった

今こうやって大金を平気で私に渡してくるのは一体なんのつもりなのか

それでもこの咎はお前がおうものだ

私じゃない、お前が負うものだ

私の傷だって私がつけたものじゃない、お前がつけたんだ

 

友人を亡くしたことがある恋人が言った「俺ら○○が死んだ時泣いたからね」。そうだよ、それをわたしは経験したいんだよ、それを経験できる肉体がもうその時には無いとしても、私が死んで泣いてくれるあなたがいるということが、私にとって、どれだけの光か。

 

 

早く死にたい。

この六畳間にはたくさんのきらびやかですてきなものがあって、でもそれがわたしを圧迫するように責任の所在を問うてくる。

抱きしめ合える恋人がいるというのに、恋人同士でいていい自信もなくて、すこし離れればすぐに不安になって怖くなって頓服を何錠も飲む。

毎日泣いて泣いて泣いて、でもこのことを証せることなんてないのでしょう。

何も無かったかのように過去になっていく。

どうかどうか、私たちを殺さないでください、私は本当は健やかに、笑いあって、あなたと生きたいんです、生きたかったんです、

慰め役を担わせてしまう疚しい必然が、きっとわたしたちを引き裂くのです、

心配事は起こらないのではなく、予想の斜め上の形をもってやってくるものなのだろう。

 

どうか私たちを生かしてください

どうか、どうか

 

それ大して虐待じゃないよとあなたも言いますか

私の母親は二面性がありました

精神疾患だったから当然と言えば当然なのかもしれません

ある日は優しい手紙を書き、美味しい夕飯を作り、普通に生きています

ある日は私を叩き蹴り、服を掴んで玄関から放り出し、暴言を1時間吐き続け私が泣き出すと嬉しそうに去っていったりしました

父親は空気でした こういったトラブルが起きても助けてくれたことはなく平気で眠っていました

小学生の頃はまだ良かったんだと思います、わたしはちゃんと学校に通っていたし、夫婦喧嘩を毎日のように聞いてはいたり自殺未遂の場に居合わせかけたりしたりしましたが、それでも、です

中学になって私が不登校になってからは、不登校という事実を受け入れられない母親がいたんだと思います

毎朝わたしを叩き起し、行きたくないのに一旦家を出され、行きたくないから家に戻ってくると当然怒鳴られます

毎朝のようにトラブルは起きていました

前述した蹴られる、服を掴んで玄関から放り出される、暴言を小一時間吐き続ける、などのこともその頃にあったことです

その頃わたしは神経症気味で、視線恐怖症醜形恐怖症の気があったのですが、そのことをわざと言うように、ブス、マスクつけないと外出できなくて可哀想、などと陳腐な暴言を私に吐き続けました

これは小学生の頃の話ですが、テレビで虐待のニュースが流れた時、私は何も言ってないのに「虐待だって言いたいんだろ?じゃあ先生にでも言えよ虐待じゃねぇから」などと言いながら給食の集金袋にわざとあの人は「虐待されています」と紙に書き散らしたものを入れて私に叩きつけたことも私は覚えています

中一からわたしは自傷が始まりました、腕を切っていました

その頃は軽かったのですが、だんだん傷の度合いも深くなり、ある日あの人とトラブルにまたなった際、あの人はこう言いました

「どうせならもっと深く切れよ」そう言って果物ナイフを私になげつけました

それから23歳になる今も自傷癖は治っていません

 

いつだか、毒親という言葉がテレビで取りあげられたとき、またもあの人は勝手に機嫌を損ねこう言います「私が毒親なんじゃなくてお前が毒子」

……

 

わたしはわからないです

これが虐待にあたるのか

ほんとうに虐待などとはいえず、私が狂ってるのは私が勝手に思い詰めすぎた自業自得の結果でしかないのかもしれないです

 

なにより、母親は精神疾患で薬を沢山飲んでいました

だから健忘が起きて、このことをほぼ全てといってもいいほど覚えていないのです

そのことがまた別のトラブルの際に発覚したときは絶望感に襲われました

わたししかわたしがされたことを覚えている人などいなく、証明なんてことはわたしにさえなし得ないのだと

 

最近本人から言われました

親孝行をしろと

親に付き合ってやることも親孝行のひとつだと

 

だったらわたしは常に親孝行をしていることになりますが。

あなたと表面上の関係を維持するために病状を隠し、当たり障りない自分を演じながら、なにより本当に、あなたと関係を未だ持っている、それだけで私にとってはストレスなことなのにしてあげているんですから。

と、言いたいことは尽きませんが、どうせ本当に伝わってくれることなどないのでしょう。

 

母親をみていると、アイデンティティがない人だなと思うのです

だから唯一の娘である私に執着を持つのだと思います

ずっと女の子供が欲しかったらしいことも聞いたことがあります

そして何より、あの人は正常な時はわたしにことあるごとに会いたがります、いまでもそうです、自分が私を虐げたことを一切覚えていないからそんなふうにおもえるんだとおもいます

それを必死に避ける日々です

私が引越しする時はついてくるようにあの人も地元を出るらしいです

最悪です

そんな未来が訪れるくらいなら死んで欲しい、いや死んだ方がマシだと思うくらいです

生きている価値を見いだせなくなるような行為をやめてほしい、けれどもう母親は私にとって呪いになっているので、生きていること自体が価値を持つことがもはや無くなっているのです

 

私は私を恥じています

こんなふうに狂って人に負担をかける私のことを

それをあの人のように健忘でないものに出来たらどんなに楽でしょうと思いつつも、そんな人間になってまで生きる価値はないことは明白だとわかっています

事故にでもあって死んでくれたらどんなに救われるだろう、そう思うばかりの日々です

とにかくいなくなって欲しい、消えて欲しいのです

過去の負債がどうしても消えないなら、とにかく未来でも負債を増やさないで欲しい、私が抱える必要のないものまで、と思うばかりです

 

私が遭った目はどうしても虐待じゃないんですか

 

(かといって誰が今更それは虐待だったと言ってくれたとしても救われる私はいないわけだが)

輝度

いなくなってしまった友だち

友だち、とよぶものかすらいまやわからない

無い記憶が呼び覚まされる

小雨の降る赤い水面が

どんな青よりも海だったこと

繊月が照らすにはありえない光量で

燃えるように光っている

きらきらと光っている

 

顔貌を示すのは記憶だけ、だけど

その記憶がまったくないんだ

それでもその手を握り続けるのは

席を譲ったあとの行き場を与え続けたいから

手を握り続けないと

散り落ちて変色してやがて腐りゆく

それでもひとつの生のかたちだったね、なんて

めでたく消費されるいのちのひとつに

なってほしくないんだよ!!!!!!

負債だけがあり、そのマイナス値をせめてとゼロに持っていくためだけに費やされる人生。諦めきれないばかりに足掻けば足掻くほど、負債はみるみるうちに増える。

諦めきりたい。もうこれ以上すこしの希望も見出したくない。

歌が歌いたい

歌いたい歌があるのに、わたしの声は揺れて揺れて、それはもう醜く聞こえて仕方ない。描きたい絵があるのに、絵の具の積層は価値を有さないまま過去になっていく。連ねたい言葉があるのに、「あるはずなのに」という思いだけがより強くある。

どれほど涙を垂れ流しても、すぐに乾きゆくそれは、流れた証も残せないまま、垂れ流すという選択をすることさえいずれできなくなる。

なぜわたしはここにいるの?ここが相応しいからでしょうね。屑籠の中にいるような心地だった頃だって、重大な欠陥は自分自身にあった。

このまま終わる。

殺してくれよ

揃えた指輪もお気に入りの柄のパジャマも共有し得た愛情さえもぜんぶ機能せず、殺してくれよとあたりかまわず喚き散らしたい時があるって、きっとあなたはわかっていたんだね。

けれどあの日わたしがガラスを蹴り破りながら叫んだことばは「殺して」ではなく「助けて」で、それでも、それを誰が聞いたとしてもあからさまな救いがもたらされることはないと明白だった。

 

10代の頃からあからさまな救いというものがもたらされることに思いを馳せながら、しかしどこかでそれはありえもしない絵空事だとわかっていたように思う。

わたしはいつも去る側として存在していて、去る側の身勝手かつ切実な悲壮しか知らなくて、だからきっと、関係性を裏切るのはこれまでもこれからも私の方なのだろう。

 

生きたいのはやまやまですが、生きられないんだよ。きっとそう。わたしは自分のことさえ最後には裏切って、潜在するすべてをコンクリートで埋めるように諦めてしまう。そんな気がする。